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休学生の日記

早稲田大学3年次を休学。2016年9月から2017年7月までベトナムで海外インターン。アジアが好き。

「鶏の屠殺」を見学してきました。

「知識として知っている」と「実体験として知っている」は、全く別物だと思う。

先週末ですが「鶏の屠殺」を見学してきました。

屠殺(とさつ)ないし屠畜(とちく)とは、家畜等の動物を殺すことである。「屠」は「ほふる」の意。一般的には食肉や皮革等を得るためだが、口蹄疫などの伝染病に感染した家畜を殺処分する場合にもこの語が使用される。

引用:Wikipedia

一緒に見学に行った人が農場で放し飼いされている鶏を捕まえ、それを農場の人が私達の目の前で「〆て」くれました(こういうのが苦手な方もいると思うので、具体的なプロセスについての説明は省略します)。

生まれて初めて生き物が食べ物になっていく過程を見て、自分は他の命を犠牲にしながら、犠牲にしてこそ、毎日生きていられるんだということを初めて理解できた気がします。

今までも「私は他の動物の命を奪って生きている」ということはもちろん知っていたけれど、知識として知っているのと自分の実体験として知っているのは全く別物だと、本当に思いました。

つい数分前までは生きていた鶏が、目の前で「食肉」に変わっていく。

今まで私が食べてきた「鶏肉」は、もともとは「生きた鶏」だったのだ、という当たり前のことが、21年目にして初めてちゃんと理解できた気がしました。そして21年目にして初めて、本当の意味での「いただきます」が言えた気がしました。

私たち日本人が毎日発する「いただきます」という言葉だけど、それを本当の意味で言えている人は果たして何人いるのだろう、と思います。「いただきます」は、ただ「食前に言う言葉」という意味になっていないか?「食べ物に感謝する言葉」という意味が忘れられてはいないか?と。

どんな意味を込めて言っていたとしても「いただきます」は「いただきます」だし、表面上は何も変わらない。それでも、言葉が本来持つ意味を忘れてはいけないのではないかと私は思ってしまいます。何が違うんだ、と言われたらそれまでなのだけど。

・・・話がずれました!

 

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捕まえた鶏は量りで重さを量られ、値段が決められる。たった3.0kgの彼女だけど、その命は私たち人間と同じ重さの命である。

 

日本では動物と食べ物の間に繋がりがないように「見える」

日本では、元々動物だったことが分からないくらい肉も何もかもきれいに加工されてスーパーに並んでいます。

私たちが知っている鶏や牛や豚と、スーパーに並んでいる肉たちの間には何の関係性もないように思える。全く別物に見えてしまう。

頭では「これは鶏の肉だ、これは牛の肉だ、」と分かっていても、本当には「分かって」いないのです。普段見ている動物としての鶏や牛と目の前にある食肉のビジュアルが乖離しすぎていて、理屈としては分かっていても、本当には結びついてはいない。

「肉」と「動物の死体」は物質的には同じものを指しているけれど、全く別の言葉ですよね。誰も「動物の死体を食べる」とは言わず、「肉を食べる」と言う。同じものなのに。「他の生き物の死体を頂いている」という事実を忘れようとしているようにさえ思えます。

原型が分からないくらい綺麗に加工してから食べる。加工の過程は一切、一般の消費者の私たちには見えない。だから動物と食肉の間には全く繋がりがないように「見える」。

一方ベトナムでは、首都であるハノイでさえ市場では鶏が丸ごと売られていたり、豚の頭がまるまる売られていたりします。そこには「動物の死体、且つ食肉」があるのです。

先進国では、何もかも清潔であればあるほど良いとされています。いつそんな考えが出来たのかわからないけど。こんなに色々と語っている私だって、生きていたことがありありと分かるような状態の肉はあまり食べたいと思いません。「屠殺」なんて見たくないと思う人がほとんどではないでしょうか。

でも、それでも私は、見たいと思いました。
見なくてはいけない、とも思いました。

別にそれが正しいとか悪いとか、そういうことを言いたいのではなくて。私がグロテスクなものを好き、という意味でももちろんなくて(むしろ苦手です、映画もアクションムービーとか結構苦手です)。

言いたいのは、私は、知識として知るだけではなくて、自分の経験として、いろいろなことを知りたいんだってこと。可能であれば、一次情報に触れたい。自分の経験として蓄積したい。

・・・そうです、この記事は屠殺について偉そうに意見を述べる記事と見せかけて実は「私って、経験として知識を得ることが好きなんですよ!」っていう、誰の得にもならない私の嗜好をただ主張するための記事です。笑

 

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"彼女"を、その日の夕飯として頂く。〆たばかりの鶏は弾力があり、今まで食べたどの鶏よりも美味しかった。頭から足まで丸ごとすべて頂くのがベトナム流。

 

知ったところで、何もできない。それでも知りたい

ベトナムに来てふと気がついたことは、私は「知ったところでどうにもならないけど、それでも知るべきであること」を知ることに、強い情熱があるということ。

今回の屠殺もそうだし、地球の裏側で起きている戦争のことや、知らない人たちの身に起きている悲惨な現状、世界の負の歴史のこと。そういうことを、たくさん知りたいと思う。小さな島国の一市民である私が知ったところで何もできないし、状況は何も変わらない。だけど、それでも知りたいし、知るべきだと思う。

どうしてなのかは自分自身にさえよく分かりませんが、これが世間一般にいう「知的好奇心」ってやつなんでしょう~

それが日常生活にどう役に立つのかは分からない。多分、何の役にも立たない。だけど、知りたいと思う。「知識を得ることそのもの」が、私にとってはたまらなく魅力的で、楽しいことなんだって、思います。

 

無駄な考え事をして初めて、自分のことに気が付ける。

休学をしていると、こんなふうに、自分がどんなことに興味があるのか、どんなことが得意なのか、好きなのか、ということに気が付ける機会が多いような気がしています。

なぜ気が付けるのか、というと、考える時間がある、というのが1番大きいかもしれません。

日本だと考える時間なんてなくて、ただ目の前のことを行っているうちに毎日が過ぎ去ってしまうから(私が日本にいたときに毎日過剰なまでに予定を詰め込むタイプの人間だったから、というのもあります。日本でもうまく自分の思考と向き合う時間を作れている人ももちろんいることでしょう)。

「肉」を「肉」として買って食べることに疑問を持っている暇なんてありません。「肉」と「動物」の関係性なんて考えようとも思いません。忙しさのあまり、思考停止して、事実に疑問を感じることが少なくなってしまっているような気がしています。だから自分がどんなことに興味を持って、どんなことを考えるのが好きなのか、ということに気が付きづらいんじゃないかなあ、と。

まあ「肉」と「動物」の関係性を理解できていようとなかろうと生活には何の影響もないし、他の人から見ればこういうのは「無駄な考え事」と一蹴されてしまうものだと思います。でも私はこういう「無駄な考え事」が大好きで、尊くて、自分の考えが豊かになることにとても喜びを感じてしまうのです。

ということで復学後は知的好奇心を満たすことに全身全霊を注ぎたいです!後期の時間割を決めるのが楽しみだな~。

 

こちらからは以上です。