「鶏の屠殺」を見学してきました。
「知識として知っている」と「実体験として知っている」は、全く別物だと思う。
先週末ですが「鶏の屠殺」を見学してきました。
屠殺(とさつ)ないし屠畜(とちく)とは、家畜等の動物を殺すことである。「屠」は「ほふる」の意。一般的には食肉や皮革等を得るためだが、口蹄疫などの伝染病に感染した家畜を殺処分する場合にもこの語が使用される。
引用:Wikipedia
一緒に見学に行った人が農場で放し飼いされている鶏を捕まえ、それを農場の人が私達の目の前で「〆て」くれました(こういうのが苦手な方もいると思うので、具体的なプロセスについての説明は省略します)。
生まれて初めて生き物が食べ物になっていく過程を見て、自分は他の命を犠牲にしながら、犠牲にしてこそ、毎日生きていられるんだということを初めて理解できた気がします。
今までも「私は他の動物の命を奪って生きている」ということはもちろん知っていたけれど、知識として知っているのと自分の実体験として知っているのは全く別物だと、本当に思いました。
つい数分前までは生きていた鶏が、目の前で「食肉」に変わっていく。
今まで私が食べてきた「鶏肉」は、もともとは「生きた鶏」だったのだ、という当たり前のことが、21年目にして初めてちゃんと理解できた気がしました。そして21年目にして初めて、本当の意味での「いただきます」が言えた気がしました。
私たち日本人が毎日発する「いただきます」という言葉だけど、それを本当の意味で言えている人は果たして何人いるのだろう、と思います。「いただきます」は、ただ「食前に言う言葉」という意味になっていないか?「食べ物に感謝する言葉」という意味が忘れられてはいないか?と。
どんな意味を込めて言っていたとしても「いただきます」は「いただきます」だし、表面上は何も変わらない。それでも、言葉が本来持つ意味を忘れてはいけないのではないかと私は思ってしまいます。何が違うんだ、と言われたらそれまでなのだけど。
・・・話がずれました!
捕まえた鶏は量りで重さを量られ、値段が決められる。たった3.0kgの彼女だけど、その命は私たち人間と同じ重さの命である。
日本では動物と食べ物の間に繋がりがないように「見える」
日本では、元々動物だったことが分からないくらい肉も何もかもきれいに加工されてスーパーに並んでいます。
私たちが知っている鶏や牛や豚と、スーパーに並んでいる肉たちの間には何の関係性もないように思える。全く別物に見えてしまう。
頭では「これは鶏の肉だ、これは牛の肉だ、」と分かっていても、本当には「分かって」いないのです。普段見ている動物としての鶏や牛と目の前にある食肉のビジュアルが乖離しすぎていて、理屈としては分かっていても、本当には結びついてはいない。
「肉」と「動物の死体」は物質的には同じものを指しているけれど、全く別の言葉ですよね。誰も「動物の死体を食べる」とは言わず、「肉を食べる」と言う。同じものなのに。「他の生き物の死体を頂いている」という事実を忘れようとしているようにさえ思えます。
原型が分からないくらい綺麗に加工してから食べる。加工の過程は一切、一般の消費者の私たちには見えない。だから動物と食肉の間には全く繋がりがないように「見える」。
一方ベトナムでは、首都であるハノイでさえ市場では鶏が丸ごと売られていたり、豚の頭がまるまる売られていたりします。そこには「動物の死体、且つ食肉」があるのです。
先進国では、何もかも清潔であればあるほど良いとされています。いつそんな考えが出来たのかわからないけど。こんなに色々と語っている私だって、生きていたことがありありと分かるような状態の肉はあまり食べたいと思いません。「屠殺」なんて見たくないと思う人がほとんどではないでしょうか。
でも、それでも私は、見たいと思いました。
見なくてはいけない、とも思いました。
別にそれが正しいとか悪いとか、そういうことを言いたいのではなくて。私がグロテスクなものを好き、という意味でももちろんなくて(むしろ苦手です、映画もアクションムービーとか結構苦手です)。
言いたいのは、私は、知識として知るだけではなくて、自分の経験として、いろいろなことを知りたいんだってこと。可能であれば、一次情報に触れたい。自分の経験として蓄積したい。
・・・そうです、この記事は屠殺について偉そうに意見を述べる記事と見せかけて実は「私って、経験として知識を得ることが好きなんですよ!」っていう、誰の得にもならない私の嗜好をただ主張するための記事です。笑
"彼女"を、その日の夕飯として頂く。〆たばかりの鶏は弾力があり、今まで食べたどの鶏よりも美味しかった。頭から足まで丸ごとすべて頂くのがベトナム流。
知ったところで、何もできない。それでも知りたい
ベトナムに来てふと気がついたことは、私は「知ったところでどうにもならないけど、それでも知るべきであること」を知ることに、強い情熱があるということ。
今回の屠殺もそうだし、地球の裏側で起きている戦争のことや、知らない人たちの身に起きている悲惨な現状、世界の負の歴史のこと。そういうことを、たくさん知りたいと思う。小さな島国の一市民である私が知ったところで何もできないし、状況は何も変わらない。だけど、それでも知りたいし、知るべきだと思う。
どうしてなのかは自分自身にさえよく分かりませんが、これが世間一般にいう「知的好奇心」ってやつなんでしょう~
それが日常生活にどう役に立つのかは分からない。多分、何の役にも立たない。だけど、知りたいと思う。「知識を得ることそのもの」が、私にとってはたまらなく魅力的で、楽しいことなんだって、思います。
無駄な考え事をして初めて、自分のことに気が付ける。
休学をしていると、こんなふうに、自分がどんなことに興味があるのか、どんなことが得意なのか、好きなのか、ということに気が付ける機会が多いような気がしています。
なぜ気が付けるのか、というと、考える時間がある、というのが1番大きいかもしれません。
日本だと考える時間なんてなくて、ただ目の前のことを行っているうちに毎日が過ぎ去ってしまうから(私が日本にいたときに毎日過剰なまでに予定を詰め込むタイプの人間だったから、というのもあります。日本でもうまく自分の思考と向き合う時間を作れている人ももちろんいることでしょう)。
「肉」を「肉」として買って食べることに疑問を持っている暇なんてありません。「肉」と「動物」の関係性なんて考えようとも思いません。忙しさのあまり、思考停止して、事実に疑問を感じることが少なくなってしまっているような気がしています。だから自分がどんなことに興味を持って、どんなことを考えるのが好きなのか、ということに気が付きづらいんじゃないかなあ、と。
まあ「肉」と「動物」の関係性を理解できていようとなかろうと生活には何の影響もないし、他の人から見ればこういうのは「無駄な考え事」と一蹴されてしまうものだと思います。でも私はこういう「無駄な考え事」が大好きで、尊くて、自分の考えが豊かになることにとても喜びを感じてしまうのです。
ということで復学後は知的好奇心を満たすことに全身全霊を注ぎたいです!後期の時間割を決めるのが楽しみだな~。
こちらからは以上です。
学生よ、結果にこだわるな。
学生の最大の特権は、過程を評価してもらえることだ。
今、インターンとして社会人の世界に足を踏み入れてみてすごく思うことが、”結果が出ないことをやっても許されるのが学生時代”なんだなあ、ということ。
もちろん、結果が伴うに越したことはない。
けれども、「過程を評価してもらえる」というのが学生時代の大きな特徴、というか特権だなあと心から思うのです。
社会人になると、過程なんて評価されなくて、本当に結果が全てなんだよね。
私は現在インターンの業務として主に広告の営業をしているけれど、営業の本をどんなに読んだとしても、広告についてどんなに勉強したとしても、契約が取れなければそんなのは何の意味もないことで。
過程としてどんな努力を積んだとしても、それ自体は評価には値しないものなんです。
一方、学生時代は過程をこそ評価してもらえる。
何かに挑戦して、例え失敗したとしても、その「挑戦したという行為そのもの」が尊いとされる。
自分の行為が成果や結果に結びつかなくてもいいの。社会人は結果がすべてだけど、学生はそうじゃないの。
これって実は本当に、本当~~に、尊いことだと思うのです。
学生時代は結果にこだわらない挑戦のラストチャンス
だからさ。学生時代って、結果が出るかどうか、成功するかどうかを度外視していろいろなことに挑戦できる最後の期間なんじゃないか、と思うのです。
だからこそ、学生時代から結果を出すことを求めるのは間違ってるんじゃないかなあ、とも思うのです。
もちろん結果を出せるに越したことはない。ないんだけど、「結果を出せないと駄目」っていうのはちょっと違うんじゃないかなあ、って。
それなのに就活では、「インターンでこんな業績を上げました!」とか、「サークルでこういう成果を残しました!」とか、そういうことを言うのが良しとされている。
だからみんな、学生のうちから「実績作り」に必死になってしまう。
でもそのせいで、結果を出せないことが怖くて本当にやりたいことに踏み出せない学生が多いんじゃないか?と思うのです。
さらに言えば、自分が「やりたいことに踏み出せない」という状況に陥っていることにさえ気が付いていないような学生が多いような気がしています。心が本当に求めていることを無意識のうちに諦めてしまっていて、「自分にはやりたいことがない」と思い込んでしまっている学生が多いのではないかと。
やりたいことを突き詰めてみる、ということ
私も実は最近、「自分は"言葉"に関わる何かをしたいんだ」ということに気がついて。
でもそれはただ「私は言葉を読んだり、書いたりするのが好きだな~、そして素敵な言葉を使う人がとっても好きだな~!」とふと気がついたから、っていうだけであり、才能があるかなんて全く分かりません。仕事にする覚悟もありません。
だからもちろん、いざ挑戦してみたところで成功する可能性なんて限りなく低くて。というよりむしろ、何に挑戦すれば良いのかもよく分かっていないような状態であるわけで。笑
「言葉と関わりたい!」とか偉そうなことを言いつつ、それから取った行動といえばブログを始めてみたり、今まで以上に本を読んでみたりと、ただ言葉に触れる時間を増やしてみているだけなんだけど。
じゃあそんなフワフワしたことに時間を使うよりも、そのぶんの時間で、お金になるアルバイトだったり、就活に役に立つような活動をした方が良いんじゃないか…という思考は近頃の大学生に起こりがちだと思う。
でも、もう1回言わせてもらうと、私は学生のうちから結果ばかりを追い求めるのは間違っていると思う。
何が得られるかなんてわからないとしても、ただ自分のやりたいことに没頭してみる。それが学生時代にやるべきことなんじゃないかって、今社会人の世界に片足を突っ込んでいて、すごくすごく思うのです。
なぜならそれは、学生時代にしかできないことだからです。
もちろん、自分のやりたいことが「成果を残すこと」ならば、それをやればいい。結果を残すこと自体が間違いだなんて、まさかそんなことは言いません。でも「結果を残さないと駄目だ」という考えはあまり良くないんじゃないか、って思うのです。
「学生の本分は勉強」である、幸せ。
「やりたいことを突き詰める」っていうことに付随して思うのが、大学時代は本当に「自分の学びたいこと、興味のあること」だけを勉強していて良いんだよ、というかそうするべきだよ、ということ。
先に述べたように、社会人になると、いくら勉強したとしてもそれが成果に結びつかなければ評価してもらえないんです。「勉強すること」そのものには、一切の価値がない。「勉強」は単なる手段であって、目的じゃないから。
でも、学生時代は「勉強すること」そのものが目的だよね。それは「学生の本分は勉強!」という、日本国民なら誰もが馴染みのある言葉にも表れている通り、誰にとっても明らかなこと。
サークルや恋愛にうつつを抜かして授業を切ったりしている学生(すみません私もその1人です)にとっては耳が痛いようなこのセリフですが。実は「勉強が本分である」って、本当に恵まれていて、幸せなことなんじゃないでしょうか。
役に立たない学問、バンザイ。
私は今大学で「文化人類学」やら、「平和学」やら「戦争史」やら‥
『で、将来それを何に使うの?』
と言われてしまうような学問を学んでおります。
確かに、就職のときにつぶしが効くような経済学だったり法律だったりを学んだ方が良いんじゃないだろうか~なんて漠然と思っていた時もありました。自分が今学んでいることは一体将来何の役に立つんだろう…と空しくなったり。ただ就職に使えそうだから、という理由だけで簿記の資格を取ろうとしていた時期さえありました。
でも、もうすでに何度も言っていますが、インターンを通して社会人の世界に一歩足を踏み入れてみて、「将来役に立つかどうかに関係なく、ただただ自分のやりたいこと、好きなことを突き詰めていっても許される、っていうのが大学生の最強の特権だな?!」ということを心底思い知ったのです。
むしろ、自分の好きなことを勉強できるのは今だけじゃないか、と思ったのです。
社会に出たら嫌が応にも自分の仕事の分野に関わりのあることを学ばないといけない。それは自分の働きに対してお金を貰う社会人としての責任、義務でもあるから当たり前のこと。
だから。どうせ社会に出たら仕事に役立てるための知識を学ばざるを得なくなるのだから、学生のうちはとことん自分の好きなことを勉強するが吉!だと思うのです。
私は今年の9月から復学しますが、残り1年半の大学生活、将来なんの役にも立たない確率の方がはるかに高い学問を引き続き学んでいきます。
今は大学に戻って勉強するのが楽しみで仕方がないし、早く勉強したくてたまらない。
それは、自分の好きなことを勉強して、その行為そのものが評価されるなんて、なんて幸せで尊いことなんだろう、と気が付くことが出来たから。「大学生」という時間の有難さに、気が付くことができたから。
そして、ここまで勉強に対する意欲が高まっているのは、広い世界に出て色々な方々とお話をする中で、まだまだ自分は何の知識もないなと、もっともっと知識や教養のある人になりたいな、と思い知ったからでもあります。
日本の大学生って、世界で稀に見る恵まれようなんじゃない?
ネットで拾い読みした記事に、アメリカ(か、どこかの国)では、大学で学んだことと職業が必ずリンクしてないといけない、って書いてあって。だから学生時代から自分の将来を見据えた学問をする、と。
でも日本は皆さんご存知の通り、理系の学部以外は必ずしもそうじゃないですよね。文学部も法学部も経済学部もあんまり関係なく、フラットにいろいろな職業を選べますよね。
これって本当に凄いことじゃないでしょうか。
まあ、変なことでもあるのかもしれないけれど。
今までは、「将来に繋がるような勉強をしない日本の大学の存在意義って何なんだろう?」なんて生意気なことを思ったりもしていました。
でも今では、「将来のキャリアとか度外視して自分の好きなことにひたすら打ち込んでいける日本の大学生活って、なんて恵まれているのだろう!」と、本当に天に感謝したくなるような気持ちで溢れています。
職業にできないような興味であっても突き詰めていける、ということに感謝したい気持ちでいっぱいなのです。
もちろん、将来やりたいことが決まっていて、それに結びつくような知識やスキルを大学生のうちから身に付けておくことは確実に役に立つことだし、私のように何の役にも立たないようなことを学ぶよりもはるかに生産性があります。
でも私は「大学時代はひたすら好きなことを学べ!」「役に立つかどうかなんて度外視だ!」「結果にこだわるな!」「ただただ自分の好きなことをしろ!」と言う人も、必要だと思います。両方の意見があって良いと思います。
なので私は自分の背中を押すためにも(笑)後者の立場に立ちたいです。
人生において本当に尊いもの。
学問の他にも、役に立つかどうか、という打算や計算だけで計れない物事って世の中にはたくさんあると思っていて。そしてそのような物事たち、将来役に立つかどうか、という損得勘定だけで取捨選択したときに零れ落ちていってしまうようなものたちが、実は人生において尊いんじゃないか、と思っていたりします。
小説なんてその代表例じゃないですか?
インターンをやっていると、ビジネス書や自己啓発本を読めと耳がタコになるくらい言われます。同じ本でも、小説を読んでいると若干の罪悪感を感じたりもします。確かにビジネス書に比べて小説は直接的に人生で役に立つとは言いづらいですよね。
でも、それでも私は小説を読むのが大好きだし、小説を読む意味は大いにあると思っています。
でも今まで、その「小説を読む意味」をうまく言語化できていなかったのですが、最近ネットで自分の胸の内を代弁してくれるような言葉に出会ったので紹介させてください。
本を沢山読むと、語彙が増える。そして本を読んでいないときの人生が豊かになる。より多くの遊びを知り、より深い味わいを知り、より楽しく人生を過ごすことが出来る。別にそれを仕事に生かす必要はぜんぜんない。本はそれを読む快感を経験することそれそのものが大事なのだ。
「本はそれを読む快感を経験することそれそのものが大事なのだ」ー特にこの一節が大好きで、まさにその通りだと思います。
損得だけでいろいろなものを切り捨ててしまう人生は、少し寂しいのではないかと思うのです。
何かをやる時、意味があるかないか、成果が出るのか、なんて考えず、ただ何となく好きだから、やってみたいから、という理由だけでも挑戦する理由としては十分なんじゃないでしょうか。
・・・なんだかいろいろと話が四方八方に飛び散って恐ろしく長く、そして読みづらい文章になってしまいましたが。
とにかく言いたかったのは「学生時代は結果を求めずにひたすら自分の好きなことに没頭してみやがれ!私も復学後は誰に何と言われようともそうしてやるぞ!!」ということになります。
こちらからは以上です。
ベトナムで「JAPAN」という単語が持つ意味
ベトナムに来て強く感じることの1つが、
「日本のブランド力と信頼度はマジで半端ねえ」ってこと。
「JAPAN 〇〇」という看板をよく見かけるけれど
ベトナムの街中では、「JAPAN LAUNDRY」だったり「JAPAN BEAUTY」だったり、「JAPAN 〇〇」と銘打った看板を見かけることが多い。
そういう看板を見かけると、なんとな~くではあるけれど"クオリティが高いんだろうな~"、"品質が良さそうだな~"という印象を受けるのは、きっと私だけではないと思う。(実際はベトナム人が経営している、日本と全く関係のないお店だったりすることもあるのだけど‥笑)
つまりは、「JAPAN」とか「JAPANESE」っていう単語が「品質の良い」っていう形容詞と同義で使われているんだよね。
本来はただの国名でしかない単語が、形容詞に変わって、しかも"高品質"とか"安心安全"という意味で使われているのって、とっても凄いことなんじゃないかなあ~とつくづく感じる。
もちろん「JAPAN」以外の国名でも、それぞれの国が持つ印象が形容詞に変わって使われていることはあると思う。でも、それが「高品質」とか「安心感」といった精良な意味を所有しているっていうのは、日本のとっても素敵な、誇るべき部分じゃないかなあと思うのです。
"日本人である"という信頼
話はちょっとズレるかもしれないけど。
ベトナムは親日国だからなのだろうけど、「日本人」というだけで凄くみんな友好的に、優しく接してくれる。
街中を歩いていると見知らぬ人が「nhat?(ベトナム語で日本の意味)」とか「japan?」って笑顔で話しかけてくることも多くて、更にはご飯をごちそうしてくれることまであって。
飛び込み営業のときも、突然の訪問でも追い払われたりはせず、とりあえず話は聞いてもらえたり。(これは日本人だから、なのかどうかは分からないけれど)
印象的だったのは、バイクの駐車券をなくしてしまって監視員のベトナム人男性と結構ゴタゴタしたとき(ベトナムはバイクの駐車に関してのルールはなぜか厳しい)、最終的に「お前、日本人か?」「ア、ハイ‥」「じゃあ、行って良い」みたいな感じになって開放してもらえたこと。笑
こんな風に、日々の生活のなかで「日本人」っていうだけで信頼が担保されているんだなあ、っていうのを感じる場面がとても多いんです。
そしてその時に思うのが、これはひとえに先人たちが作り上げてきてくれた信頼や"日本人像"のお陰だなあ、ということ。
自宅近くのビアホイで見知らぬベトナム人とお酒を飲み交わし、結果おごってもらった時の一枚。ちなみに言葉は通じない。笑
私は日本人として目の前のベトナム人の人たちに何もしてあげられないし、してあげたこともないのに、ただただ「日本人である」という事実ただそれだけで、すごく親切にしてもらえるし、信頼してもらえる。
これって、すごいことじゃないですか?
それは、YAMAHAやHONDAに代表される、ベトナム人の生活に欠かせない製品を提供する日系大企業のお陰でもあるし、多額のODAに代表される国家規模の援助のお陰かもしれない。あるいは以前、ベトナムで親切な振る舞いや行動をした日本人個人が存在するのかもしれない。
とにかく、私ではない誰か、日本人の誰かの行動が、ベトナム人が日本、ひいては日本人に対して抱く印象や感情に繋がっていて、だからこそ今私はベトナム人から親切にしてもらえるのだな~!と。
※もちろんベトナム人の国民性がそもそも親切である、というのも大きな理由。でも、日本人に対しては特別に親切な気がする。事実、多分そう。
バイクの修理を待っている時に出会ったおじさんと可愛い赤ちゃん。
抱かせてもらいました。というよりも抱かされました。
私の印象=日本人の印象
そう思うと、先人たちが作り上げてくれた「日本」「日本人」のイメージに恥じないような行動をしなくてはいけないなあ、と思わされる。
海外にいるとすごく思うのが、私の行動が、私と関わった人が「日本人」に対して抱く印象に直結するのだということ。
例えば、ベトナムでたった1回でも強盗に遭った人は「ベトナム人は物騒だ、危険だ」という印象を抱いてしまうし、逆にとても親切にしてもらった人は「ベトナム人はなんて親切な国民なんだ!」と感じるのではないだろうか。
そういう個人の行動が積もりに積もってその国の印象になるわけですね。
だから、常日頃から日本人として恥ずかしくない行動をしないといけないなあ、というのは個人的にとても心掛けていること。今ここで私が行った行動が、目の前のベトナム人の「日本人」に対する印象に直結するんだなあ、と感じるから。日本にいる時以上に、自分の行動に気を付けなければならないと思っています。
かといって「日本人らしさ」とは何なのか、というのは非常に難しい問いだし、私にもその答えは分からないけれど!
とにかく先人が作り上げてくれた日本に対する良い印象を崩さないように、なんなら良い印象を更に上乗せしていけるように、残りのこちらでの日々を過ごしていけたらと思っています。
こちらからは以上です。
これから休学する人へ − 「理由」と「目的」は違うという話。
「やりたいことやろうぜ!」という風潮で溢れる近頃の世の中ですが
近頃、世の中には「自分の心が躍る方に一歩を踏み出そう!」「やりたいことに正直になろう!」という主旨の言葉が溢れているように思う。
それは大いに構わない。
実際、私が大好きな言葉のうちのひとつに「自分のワクワクに遠慮はいらない」という言葉があるし、
私自身も自分のやりたいことに素直になることを肯定してくれるような言葉、自分の背中を押してくれるような言葉が大好きだ。
でも、例えば休学とか、そういった大きな決断をするときに「やってみたいから!」「なんだかワクワクするから!」といった思いだけで飛び出すのは、個人的にはお勧めできない。
なぜなら、それはあくまで「理由」であって、「目的」ではないから。
「理由」がそういう直感的なものであるのは大いに構わないけれど、それと同時に「目的」も持っているべきだと、私は思う。
私の考える「目的」の定義
「目的」、それは地図のゴールのようなものだ。
自分がどこに向かうべきか分かっていれば、自分が正しい方向に向かっているのか、確かめることができる。
逆もまた然り。
ゴールが判然としていないと、自分が正しい道を進んでいるのかが分からないし、自分が間違った方向に進んでいたとしてもそれを正すことが出来ないと思う。
そんな私の「目的」はというと
私の今回の休学の目的は「人に語れるような魅力的な経験、とりわけ挫折の経験を積むこと」だった。
私がベトナムに出発する直前に書いたFacebook投稿には、こんな一節がある。
「挫折して成長すること」が1番の目的である以上、「もう帰りたい」「もう嫌だ」「辛い」「逃げたい」…こう思うくらい苦境に立たされて初めて、正解です。「楽しかった~」だけで帰ってきちゃ駄目なんです。だから、友達のみんな、ベトナムから弱音や愚痴を吐いてしまうことも多いと思うけれど、どうか付き合ってやってください(笑)
私はベトナムに来て4~5か月目に、辛さのどん底まで落ちた。
もう嫌だ。無理だ。頑張れない。自分は糞だ。
自己嫌悪と悲観的な考えに取り憑かれてしまい、インターンを途中放棄して帰国しようと本気で考えていた。
しかしそんな時、自分が休学をした「目的」に立ち戻って自分の決めたゴールを見つめてみると、自分は今正しい方向に向かっているんだ、と確信することができた。
当時の自分は、まさに自分がFBに書いた通りの状況だったから。
目的がない休学は
目的がないままの休学、それは例えるならば、
大海原の真ん中に放り出され、どの島に向かえば良いかも分からないような状況だと思う。
そんな時、どの島に向かうかが決まってさえいれば、自分が目指す島の方向に正しく進んでいるのだということが分かれば、どんなに遠くても、どんなに辛くても、頑張れると思う。
逆に、どの島に向かえばいいかを曖昧にしていると、
「果たして自分が泳いできた方向は正しかったのか?」
「これからも同じ方向に進み続けて、どこにも辿り着けなかったら?」
と思えてしまって、絶対に苦しい。
私自身、今回の休学という選択を後悔しそうになることが数えきれないほどあった。
何のために休学したのか、本当に意味があるのか、不安や苦しみに襲われる夜も多かった。
でもそんな時、自分は正しい方向に進んでいるのだと分かったから、また前を向いて一歩を踏み出すことが出来た。
理由が先行していて、大いに結構。
留学したい!休学して海外インターンしたい!
そんな大きな決断をするときの「理由」、それは
「海外に興味があるから」
「想像するとワクワクする」
「なんだかかっこいい」
そんな直感的な、そして衝動的なもので構わないと思う。
ただ、「理由」とは別に「目的」を持つことが大切だと、私は声を大にして伝えたい。
自分にとってのゴールを設定することが大切なのだと。
それは誰かを説得するためでも納得させるためでもなく、自分が正しい方向に進んでいるかを確認するためだ。
目的のない行動は、あとあと辛くなる。
本当に、辛くなる。
理由が先行していたっていい。
私だって、休学を決めた理由なんて
周りに長期で海外に行く友人が多くてなんだか自分も行きたくなったからだし、漠然としたワクワク感や憧れみたいなものが大きかった。
先に理由があって、後から設定したのが「目的」だった。
自分の衝動や直感を正当化するためでもいい。最終的に、自分が納得のできる、本当に目指したいと思える目的を持つことさえできれば、なんだって構わないのだ。
目的によって行動の正解・不正解も変わってくるということ
自分がこの経験を経て何を得たいのか、
なにをしたいのか、どんな自分になりたいのか、
なにをしに行くのか。
例えば、目的が「社会人になって身動きが取れなくなる前に、学生のうちに精いっぱい広い世界を見る!精いっぱい遊ぶ!」
というものだったら、たくさん遊べばいい。
アフターシックスは毎日飲み会、
フライデーナイトはクラブに行ってはっちゃける。
それも、「とにかく楽しむこと」が目的であれば大正解。
「異文化理解」が目的であれば、現地の人との触れ合いを大切にしてどっぷりローカルの生活に浸り込むのが正解になるだろう。
でも私にとっての目的は「挫折して成長すること」。
だからひたすら自分と向き合うこと、
インターンの業務に真摯に取り組むことが正解。
もちろん私にとっても、飲み会に参加してここでしか出会えない人たちと出会うことや現地の人と触れ合うことは、すごくすごく大切なことだ。
でも私の目的に沿うならば、それは生活の2割程度でいいのだ。
目的のない休学は、つらい。
自分が何かに迷ったとき、
判断の基準となるのが目的というものだと思う。
自分が進もうとしているのは正しい方向なのか、ゴールが定まっていなければ人は簡単に見失う。
特にそれが人と違う行動だったりすると、
途端に不安に付きまとわれることになる。
休学がどんどんメジャーになって来ているのはとても良いことだし、実際私もここまで休学がメジャーになっていなかったら休学という選択なんて選ぶことはできなかったと思う。
しかし、ハードルが下がっているからこそ、安易に休学という選択肢を選んでしまう人が多いようにも感じる。
決して安易な休学が悪い、間違いだ、と言いたいわけではない。
ただ、目的のない休学はとても辛いんだよ、と伝えたい。
自分の実体験からして、非常に辛くて苦しいんだよ、と。
休学というのは、レールから外れることだ。
今までの、決まった枠の中から授業を選んで、出席して、なんとなく日々を消化していれば自動的に学年が上がった、前に進むことのできた毎日から一転。
休学は全てが自分次第だし、何でもできるからこそ、自分で自分が正しい方向に、前に進んでいるのかどうかきちんと管理しないといけない。
「どうして休学なんてしてるんだろう」
「本当に意味があるのか」
そんなことを考えだすと、とても苦しい。
そしてそれに答えが見つからなかったら、辛すぎる。
こんなことなんて考えずに、ただ休学期間を楽しめる人もいるだろう。
でも、私はどんな行動にでも意味や結果を求めてしまう人間だから、「自分にとって本当に価値のある時間になっているかどうか」ということを考えたとき、そこに答えが見つからないと本当に辛かった。親の反対を押し切っていた分、意味のある休学にしなければ、という思いが強かったのもあったかもしれない。
だから、これから休学を考えているひとたちにはぜひ「理由」の他に、「目的」というものを考えてから休学に臨んでもらいたい。
それは地図の目的地、ゴールのようなものだ。
自分がどこに向かいたいのか、それを決めてから旅をすることだ。
目的地を決めずに旅に出てしまうと
間違った方向に進み続けていても気が付かなかったり、本当にこの道で合っているのか、と迷って行ったり来たりしているうちに結局どこにも辿り着けませんでした、なんてことにもなり得てしまうから。
決して偉そうに訓示を述べたいわけではなく
偉そうに色々と語ってしまったけれど、決してお説教を垂れたいとか指図したいとかではなくて、ただ自分の実体験から得た感想を伝えたかったんです。
自由度が高い分、自分で決めた選択である分、
責任や不安が100%自分にのしかかってくる。
実際私はとても悩んだし、辛い思いもした。
でも目的地を決めていたおかげで、自分は正しい方向に進んでいるのだと確信が持てて、楽になった。
だから休学という旅に出る時は、「理由」の他にもひとつ自分なりの「目的」というものを持ってみてほしいな、と私は個人的にとても思うわけです。
こちらからは以上です。